「デジタルデトックスの宿」で人生が変わった話をしたいのに、まず恥を晒すことになった件

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「デジタルデトックスの宿」で人生が変わった話をしたいのに、まず恥を晒すことになった件

※登場人物は全て仮名です。

スマホが体の一部だった頃

佐藤美咲、34歳。都内のIT企業でWebディレクターをしている。

得意なことは、会議中にバレずにSlackを返すこと。朝起きて最初に触るのはスマホ。寝る前に最後に触るのもスマホ。彼氏より長い時間一緒にいる存在、それがiPhone15 Pro Max。

ちなみに彼氏には先月フラれた。理由は「一緒にいるのに一緒にいる気がしない」とかいう、歌詞みたいなセリフだった。

悔しいことに、そのフラれたLINEのスクショを親友に送って「これ何の歌詞?笑」と返信をもらうまで、15分しかかからなかった。

傷つく暇もなかった。いや、たぶん傷ついてたんだと思う。ただ、スマホが痛み止めになってただけで。

話を戻す。

美咲のスクリーンタイムは1日平均9時間42分。これは日本人の平均睡眠時間より長い。つまり寝てるより起きてスマホ見てる時間のほうが長い。ちょっとした恐怖データである。

きっかけは上司の一言

ある金曜日、直属の上司の田中さん(52歳、趣味は渓流釣り)がこう言った。

「佐藤さん、顔色やばいよ。土日どっか行きなよ。スマホ使えないとこ」

余計なお世話だと思った。でも、化粧室の鏡で自分の顔を見て考えを改めた。目の下のクマが、もはやクマというよりパンダ。パンダは可愛いけど、34歳のパンダ顔はただ怖い。

その日の昼休み、美咲は「疲れ 取れない 旅行」と検索した。出てきたのは温泉、エステ付きホテル、そしてデジタルデトックスの宿。

デジタルデトックス。聞いたことはある。SNSで何回も流れてきた。「スマホを手放して自分を取り戻す3日間」みたいなキラキラした投稿。正直、あれを見るたびに思ってた。いやいや、そのデジタルデトックスの感想をスマホで打ってるやん、と。

ここでちょっと脱線するけど、美咲には密かな特技がある。電車の中で、他人のスマホ画面をチラ見せずに我慢できた試しがない。

先週も隣のサラリーマンが見てた競馬予想サイトを一緒にハラハラしながら読んで、しかもそのおじさんが買ったらしき馬を心の中で応援してた。結果は知らない。

降りる駅が来てしまった。あのおじさん、当たったかな。今でも気になる。

閑話休題。

予約サイトで見つけたのは、長野の山奥にあるデジタルデトックス専門の宿。チェックイン時にスマホを預ける。Wi-Fiなし。テレビなし。部屋には本と、窓と、布団だけ。

1泊2食付き18,000円。

高いのか安いのか分からなかったけど、目の下のパンダに免じて「予約する」を押した。

チェックインという名の別れ

土曜の朝、新宿からあずさに乗って約2時間。さらにバスで40分。降りたバス停には看板すらなく、砂利道を10分歩いた先にその宿はあった。

古民家を改装した、品のいい建物。玄関で出迎えてくれた女将さんが、にっこり笑ってこう言った。

「では、お連れ様をお預かりしますね」

お連れ様。スマホのことである。

ここで美咲の体に異変が起きた。スマホを渡す手が、震えた。大げさじゃなく、本当に震えた。

美咲が最後に手が震えたのは、大学4年生の卒論発表以来だ。あのときはパワポのスライドが途中で固まって教授陣の前で3分間の沈黙を経験した。あの恐怖と同じレベルの何かが、指先に走った。

「あの、写真だけでも」

「申し訳ございません」

女将さんの笑顔が完璧すぎて怖い。北風と太陽でいうなら、完全に太陽。逆らえない温かさ。美咲はスマホを差し出した。指紋認証で手放す瞬間、本気で「行かないで」と思った。

最初の1時間は地獄

部屋に通されて、畳に座った。

静かだった。異常に静かだった。

都会では気づかなかったけど、美咲の日常には常にBGMがあった。通知音、電車のアナウンス、YouTubeの自動再生、カフェの雑談。それが全部消えて、残ったのは風の音と、遠くの鳥の声だけ。

最初の15分。何をしていいかわからない。

30分後。手が勝手にポケットを探る。ない。

45分後。窓の外の木を数え始める。17本。

1時間後。あまりにも暇すぎて、部屋に置いてあった本を手に取った。夏目漱石の「草枕」。冒頭を読んだ。

「山路を登りながら、こう考えた」

5行読んで気づいた。文字を読んでる。スマホじゃなく、紙の本の文字を。最後に紙の本を読んだのはいつだろう。たぶん3年前、飛行機の中で機内モードにしたときだ。

夕食で泣いた話

夕食は囲炉裏を囲んで、宿の主人が焼いてくれる岩魚の塩焼き。地元の野菜を使った煮物。炊きたての白米。味噌汁。

美咲は岩魚を一口食べて、止まった。

うまい。

こんな感想、小学生の作文みたいだけど、それしか出てこなかった。うまい。魚ってこんな味だったっけ。口の中で身がほろっと崩れて、塩気がじわっと広がって、鼻に抜ける香ばしさが残る。

ここで思い出してしまった。先月、彼氏と最後に行ったイタリアン。あのとき美咲は、パスタの写真を撮って、インスタに上げて、いいねの数を確認して、コメントに返信して。

パスタの味、覚えてない。

彼氏が何を話してたかも覚えてない。

たぶん、あのとき彼は最後のチャンスをくれてたんだと思う。ねえ聞いてる?って何回か言われた気がする。聞いてなかった。画面のほうを見てた。

岩魚の塩焼きを食べながら、美咲の目から涙がぽたっと落ちた。隣の席にいた50代くらいの女性が、黙ってティッシュを渡してくれた。ふたりとも何も言わなかった。その沈黙が、ありがたかった。

朝の散歩で気づいたこと

翌朝5時に目が覚めた。普段なら二度寝してスマホのアラームを4回止めるところだけど、この日は違った。体が勝手に起きた。

宿の周りを散歩した。朝もやの中、山の稜線がうっすら見える。空気が甘い。比喩じゃなくて、本当に甘い匂いがした。あとで聞いたら、近くの林にヒノキが植わってるらしい。

30分歩いて、ベンチに座った。何もしなかった。ただ座って、山を見てた。

ここで美咲は自分でも驚くことに気づいた。頭の中が、静かだった。いつもはTwitterのタイムラインみたいに、色んな思考が次々スクロールしてるのに。今朝は、ただ山がある。空がある。それだけ。

たった一晩スマホを手放しただけで、こんなに頭の中が変わるものなのか。

あのSNSで見かけてたキラキラ投稿の人たち。ちょっと大げさだと思ってた。ごめん、大げさじゃなかった。むしろ控えめだった。

チェックアウトの朝

帰り際、女将さんからスマホを受け取った。電源を入れると通知が山のように降ってきた。Slack47件、LINE22件、Instagram8件、メール31件。

美咲はスマホを見つめて、そっとカバンにしまった。

「あとで見ます」

この5文字が出てきた自分に、ちょっと感動した。24時間前の自分なら、バスに乗る前にすべて既読にしてたはずだ。

帰りのあずさの中で、美咲は窓の外を見ていた。田んぼの緑、遠くの山並み、トンネルを抜けるたびに変わる風景。スマホはカバンの中で、おとなしく眠っていた。

新宿に着いて、改札を出て、やっとスマホを開いた。

最初にやったことは、あの宿の予約サイトを開くこと。来月の週末に、もう1泊。今度は2泊にした。

そして2番目にやったことは、元彼にLINEを送ること。

「あのときのパスタ、何味だったか教えて」

既読はついたけど返信はまだない。まあ、いい。待てる。美咲は画面を閉じて、駅前のベンチに座って空を見上げた。東京の空だって、ちゃんと見れば青いのだ。

通知が3つ鳴った。美咲はポケットの振動を感じながら、もう少しだけ空を見ていた。

 

デトックスを満喫できる隠れ家宿。都会の喧騒を忘れる至福のひと時

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